競艇界のニューアイドルと呼ばれた木村厚子選手を襲った悲劇
本記事では木村厚子選手を紹介します。
木村選手は一時期熱狂的なファンがいるほどの人気選手であり、人気だけではなく実力も伴った選手でした。
木村選手の登場によって、競艇界に新しい風が吹くと期待され、実際にその通りの活躍をされた選手ですが、残念ながらある悲劇によって帰らぬ人となってしまいました。
木村選手がどういった選手なのか、そしてどのような悲劇に見舞われてしまったのかを解説していきます。
木村厚子選手のプロフィール
木村選手の簡単なプロフィールは以下のようになっています。
名前 | 木村厚子 |
登録番号 | 3196 |
生年月日 | 1964年8月7日 |
所属支部 | 埼玉 |
身長 | 155センチ |
体重 | 不明 |
級別 | B1 |
木村選手は埼玉支部の選手です。
最終的な級別ではB1ランクでしたが、一時期はA1級として活躍していた事故もあり、人気だけではなくしっかりと実力も兼ね備えている選手でした。
最終的な成績は、通算出走回数2,028回、1着回数254回、勝率5.15となっています。
2,000回以上も出走していて勝率が5割を超えるというのは、かなり凄い記録だといえるのではないでしょうか。
競艇選手になるまでの経緯
木村選手は、お兄さんとお姉さんが体育教師をやっているというスポーツ一家で育ちました。
木村選手もその流れに逆らわず学生時代はスポーツに励む日々を過ごし、中学高校時代は・陸上選手として活躍します。
その後、お兄さんやお姉さんと同じようにスポーツを教える側に回りたいと思うようになり、高校卒業後はスポーツインストラクターを目指して淑徳生活文化専門学校で社会体育学を学ぶことになります。
そんな木村選手が競艇選手を志すようになったのは、友人の薦めでした。
話を聞くうちに競艇選手という職業に魅力を感じるようになり、「平凡じゃないなにかに挑戦したい」という気持ちが強くなっていきます。
選手になってからのインタビューによると、当時は今ほど競艇というスポーツがクリーンなイメージを持たれていないということもあってか、ご両親からは競艇選手になる事を強く反対されたそうですが、最終的には了承を得たようで、専門学校を中退し、競艇選手の養成学校に入学しました。
競艇界のニューアイドルとして競艇のイメージアップに貢献
養成学校を卒業後、木村選手は1985年5月23日、戸田競艇場でのレースにて選手としてデビューします。
そして、新人選手は6コースから進入しなければならないという不利な状況ながら、デビュー戦を2着でゴール、新人選手としては最高のスタートを切る事になります。
約半年後の11月に三国競艇場で開催されたレースでは見事初勝利を飾り、その1年後にははじめて優勝戦に進出します。
木村選手は実力もさることながら、当時の女性競艇選手としては綺麗な顔立ちということもあり、「競艇界のニューアイドル」としてスポットライトを浴びることになりました。
今でこそ女性選手が200名近く在籍しており、なかにはアイドルやモデルにも負けないようなルックスの選手もいますが、木村選手がデビューした1980年代後半はまだそういった状況とはほど遠く、競艇選手はほとんどが男性でした。
そんな中、美人女性選手がデビューし、男性選手に交じって活躍しているのですから、目立つのも無理はありません。
そんな人気におごるようなこともなく、木村選手は着実に実績を積み上げていき、1988年にはA級に昇格します。
そして、その翌年の1989年には同じ競艇選手である加藤金治選手と結婚しました。
この結婚は当時大きな話題となっており、多くの男性ファンが別の意味でショックを受けたことでしょう。
デビュー5年目にして念願の初優勝
加藤選手と結婚した後も、木村選手は現役を続行します。
結婚で大事なパートナーが出来たことは木村選手にとって大きくプラスに働くことになりました。
結婚して1年が経過した1990年3月10日、デビュー戦を経験した戸田競艇場にて木村選手は念願の初優勝を飾ります。
デビュー5年目にしての初優勝は喜びもひとしおだったに違いありません。
2003年5月24日に悲劇は起こった
その後も優勝とまではいかないものの、着実に実績を積み重ねていきます。
競艇のイメージアップにも大きく貢献し、経験を積んで木村選手は女性選手のなかでもベテラン選手として後輩からの信頼もとても厚かったことでしょう。
また、娘さんがおり、「ママさんレーサー」としての顔も持っていました。
しかし、そんな順調としか言えないような木村さんの人生に突如悲劇が起こってしまいます。
2003年5月24日、木村選手は津競艇場で開催されるレースに出場していました。
第7レースに出走した木村選手の乗る艇は1号艇、競艇では1号艇が圧倒的に有利といわれており、木村選手はここまで2,000レース以上出走している大ベテランでしたから、誰もが木村選手の好走するであろうと疑わなかったことでしょう。
大方の予想通り、木村選手は第1ターンマークを1着で周ります。
競艇は90パーセント以上の確率で、1周目第1ターンマークでの着順で勝敗が決するので、この時点で木村選手の勝ちはほぼ確定となっていました。
ところが、2週目の第1ターンマークを回った時、突如木村選手の艇が失速してしまいます。
突然艇が失速したことにより、後続の艇は慌てて減速したものの間に合わず、木村選手の艇に乗り上げるようにして接触します。
木村選手は接触の衝撃で水面に投げ出された後、別の艇にも接触し、受傷してしまいました。
木村選手はすぐに三重大学医学部附属病院へと運ばれ、集中治療室にて処置が施されましたが、処置の甲斐もなく頸髄損傷、脳挫傷によって翌25日の午前11時27分、死亡が伝えられました。
競艇界のニューアイドルと言われ、大人気だった選手の38歳という早すぎる死は競艇界に衝撃を与え、多くのファンが木村選手の死を惜しんだことでしょう。
実は、とあるインタビューで、木村選手は娘さんの事を考え、この年で競艇選手を引退するつもりだったと話していたそうです。
平凡ではない世界に飛び込んだ木村選手が納得のいく選手人生を歩み、もう少しでその集大成を迎えるといった時期の事故ということを考えると、改めて胸が苦しくなってしまいます。
もし引退を決意するのがあと1年早かったら、このような悲しい事故は起きなかったのかもしれません。
事前に防げるような事故ではなかった
木村選手の事故の直接的原因は、2週目第1ターンマークでの突然の減速です。
現在の競艇では全速ターンが主流であり、ターン前に大きく減速する選手はほとんど居ません。
したがって、後続の艇も木村選手がいきなり大きく減速するとは予想だにしなかったでしょう。
突然の減速の原因は定かではありませんが、何らかのエンジントラブルによるものと推測されます。
予想だにしない出来事が目の前で起こってしまったため、慌ててブレーキをかけたとしても間に合わなかったのは仕方のないことです。
その後木村選手が艇に接触してしまったのも避けられるような状況ではありません。
この事故に関しては、未然に防げるようなものでは無いことは間違いありません。
「水上の格闘技」と呼ばれるほど危険な競技
競艇はよく「水上の格闘技」と表現されます。
それは時には接触しそうなほど激しい順位争いを水上の上で繰り広げるからですが、もうひとつ、格闘技と同じように死と隣り合わせの競技であることもその理由のひとつです。
水上なので不安定
競馬は芝の上、競輪やオートレースは道路の上で争われます。
芝も道路も安定性は抜群で、よほどのことが無い限りバランスを崩して倒れるということはないでしょう。
しかし競艇は水上で争われます。
水上は陸の上とは比べ物にならないほど不安定で、ちょっとでもバランスを崩すとすぐに転覆してしまいます。
競艇の場合、転覆するというだけでも場合によっては命を失ってしまうほど危険な行為です。
水面に叩きつけられた時の衝撃
さらに競艇のボートは時速約80キロという速度で水上を走ります。
そのため転覆した時や水面に投げ出されたときの衝撃ははかり知れません。
普通に触っていると何の抵抗もなさそうな水面ですが、時速80キロともなると、叩きつけられた際には、まるでコンクリートに打ち付けられたのと同じくらいの衝撃を受けることになります。
競艇選手は丈夫なユニフォームを着てはいますが、プロテクターなど防具類は一切身に着けてないので、ほぼ直撃でこの衝撃を受けることになります。
いかに鍛えている競艇選手であっても、意識は朦朧としてしまうでしょう。
落水すると非常に危険
そして、もっとも危険なのが落水してしまった後です。
競艇では最大6艇のボートが同じコースを走ることになります。
最下位であれば問題ないですが、そうでない場合は、落水してしまった後に後続の艇が襲い掛かることになります。
ボートはモーターについているプロペラで前に進みますが、このプロペラはむき出しです。
落水した選手が後続の艇のプロペラに接触してしまったら、ただでは済まないでしょう。
まとめ
木村厚子選手は埼玉支部の選手で、当時としては珍しい女性競艇選手であり、さらにルックスも整っていることから、「競艇界のニューアイドル」と大きな話題になりました。
実力もしっかりと兼ね備えた選手で、レース中の活躍とともに競艇の普及に大きく貢献した選手の一人であることは間違いありません。
しかし、2003年5月24日、津競艇場でおこなわれたレース中に突然エンジントラブルが発生して失速、後続の艇が避けきれず乗り上げる形になってしまい、木村選手にも接触します。
すぐに病院に運ばれて必死の処置が施されましたが、惜しくも38歳という若さでこの世を去ってしまうことになりました。
競艇は争っているときの激しさはもちろんの事、少しでも油断するとすぐ死に直結するほど危険なスポーツであり、「水上の格闘技」といわれています。
自分が舟券を買った選手が思うように走ってくれないとつい野次を飛ばしてしまいたくなりますが、木村選手やそのほかの選手の死亡事故のことは決して忘れないようにし、無事に完走したことを喜べるような余裕をもって競艇を楽しむようにしましょう。