植木通彦元選手はなぜ「不死鳥」と呼ばれるのか?経歴と大事故について紹介

植木通彦

競艇界のレジェンド選手といわれると、さまざまな選手を思い浮かべる事でしょう。

現役選手だと獲得賞金30億超えの「絶対王者」松井繁選手が筆頭に上がるでしょうし、引退した選手だと「全速ターン」を競艇界に広め、レースそのものを大きく変えてしまった今村豊元選手の名前を挙げる人が多いでしょう。

そしてそれと同じくらいレジェンド選手として名前が挙がることが多いのが、「不死鳥」の異名を持っていた植木通彦選手です。
本記事では植木通彦選手について選手時代の輝かしい経歴をメインに詳しく解説していきます。

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植木通彦元選手のプロフィール

植木選手は1968年4月26日生まれで福岡県出身、現役時代は福岡支部に所属していました。
現役時代の級別はもちろん最高ランクであるA1級です。

競艇選手を志した理由と初勝利まで

福岡県をはじめ九州地方には競艇場がいくつかあり、植木選手は少年時代にお父さんに連れられてよく地元の若松競艇場を訪れていたそうです。

植木選手が学生時代を過ごしていたころはちょうど日本全体が不景気の頃であり、植木選手の実家も少なからずその影響を受けていました。

それを観ていた植木選手は「なんとか家族の支えになる仕事がしたい」と思っていたところ、競艇選手の存在を知りました。

競艇選手は活躍すれば普通の職業とは比べ物にないほどの収入を得られるため、植木選手は家族のために競艇選手になる決心をしましたが、危険な競技ということもあり、両親からの猛反対を受けてしまいました。

植木選手は何とか認めてもらうために高校在学中競艇選手の養成所の入学テストを受験、見事合格したため両親も競艇選手になる事を認めます。

植木選手は当時通っていた高校を中退して全国モーターボート競走会連合会本栖研修所に入所しました。
ちなみに高校は競艇選手引退後に再入学、残りの単位を取得して卒業しています。

植木選手は1986年11月にデビューすると、わずか1ヶ月後の12月25日、芦屋競艇場でのレースでデビュー初勝利を飾ります。
その後も1988年に初優出を達成するなど、着実に実績を積み重ねていきました。

デビュー3年目の植木選手を突如襲った大事故

デビュー3年目の植木選手を突如襲った大事故

ところがデビュー3年目にあたる1989年、年が明けて間もない1月16日のレースにおいて思わぬ試練が植木選手に襲いかかります。

その日は桐生競艇場のレースに出場していたのですが、レース中に植木選手は転覆してしまい、更に運悪く避けきれなかった後続艇のプロペラが植木選手の顔面を直撃してしまったのです。

競艇のプロペラは毎秒数千回転という目にも止まらないスピードで回転しています。
それが直撃してしまったのですから、ただの怪我で済むはずもありません。

植木選手は病院に運ばれましたが全治5ヶ月、傷を縫合するのに75針も縫うという大怪我を負ってしまいました。

事故が発生した競艇場でレース復帰、ファンから「不死鳥」と呼ばれるようになる

桐生競艇場(引用元:桐生競艇場facebook)

これだけの大怪我を負ってしまったのですからトラウマや恐怖心で普通ならそう簡単に復帰などできないはずなのですが、植木選手はなんと怪我からわずか半年で復帰します。

更に復帰第1戦のレースをあえて事故を起こした場所である桐生競艇場としました。
桐生競艇場をあえて復帰場所に選んだのは自分を奮い立たせる為だったのと、お父さんからの進言もあったそうです。

この事は競艇ファンの間で大きな話題となり、いつしか植木選手は「不死鳥」と呼ばれるようになりました。

怪我からの復活後快進撃を見せる

怪我からの復活後快進撃を見せる

70針以上も縫う大怪我から半年で復帰、しかも復帰レースの場を事故が発生した競艇場にするというだけでも十分凄いのですが、植木選手の凄いところは事故の恐怖がまるで無いかのようにここから怒涛の快進撃を見せるところでしょう。

怪我から復帰した植木選手は文字通り最強の名を欲しいままにしており、「艇王」という新たな異名が生まれるほどでした。

1990年初優勝・1993年24歳でSGレース初制覇

怪我から復帰して次の年となる1990年、唐津競艇場の「新鋭リーグ戦」で初優勝を決めると翌年にはG1初優出とSGレース初出場を経験、1992年にはG1レース優勝を達成します。

そしてSGレース初出場からわずか3年後の1993年、「ボートレースクラシック」で初優出を決めるとその勢いのまま初優勝しました。

この時植木選手は5コースからの出走とかなり不利だったのですが、電光石火のモンキーターンを決めてまくり差しでの優勝という衝撃的な勝ち方でした。
これ以降モンキーターンは脚光を浴び、多くの選手が習得する事となります。

1994年初の賞金王に輝く

1994年になっても植木選手の勢いは留まるところを知りませんでした。
この年はボートレースダービーに優勝したほか前年以上の活躍を見せて賞金王ランキングトップで年末のグランプリに進出します。

グランプリではなく惜しくも優勝とはなりませんでしたが、総獲得賞金ではトップの座を維持し続け、初の年間賞金王を獲得しました。

1995年伝説のレースを制してグランプリ初優勝!

植木選手は当時のトップレーサー達と数々の激闘を繰り広げて勝利してきましたが、中でも1995年の賞金王決定戦は現在でも競艇史において語り継がれる激闘と言われています。

この時植木選手は5号艇からのスタートであり、1号艇は後に殿堂入りを果たす事となる中道善博選手でした。

植木選手はスタート前に2コースへ進入するという奇襲を仕掛けてそのままスタート、第1ターンマークでまくろうとしますが、中道選手が完璧なターンを決めた為わずかに届きません。

その後は抜きつ抜かれつ一進一退の攻防で文字通り死闘というべきレースであり、後半は中道選手と植木選手の一騎打ちという様相でした。

レースは最終ターンで植木選手が僅かに先行してそのままゴール、初のグランプリ制覇となりましたが、惜しくも年間賞金王は逃しています。

1996年競艇界初の獲得賞金2億円越えを達成

1996年はオーシャンカップ、ボートレースメモリアル、ボートレースダービーで優出するなどこの年も絶好調、年末の賞金王決定戦も当然のように出場します。

この時賞金王を争っていたのは前回大会で植木選手と壮絶なマッチレースを繰り広げた中道選手でした。
トライアルでは両選手とも同じような成績でしたが、僅差で中道選手が2号艇、植木選手は4号艇での出走となります。

しかしこのレースでは死闘とはなりませんでした。
スタート直後植木選手の豪快なまくり差しが決まるとそのままトップを維持し続けてゴール。

これで植木選手は賞金1億円を獲得、それまで獲得した賞金を合わせた年間獲得賞金額は公営競技選手としては初めて2億円超えを達成しました。

2002年同一年SGレース3勝と最高獲得賞金額を更新

その後も毎年のように賞金ランキング上位にランクインし続けた植木選手、選手として絶頂期となったのは2002年ではないでしょうか。

まず若松競艇場で開催された「オーシャンズカップ」でイン逃げを危なげなく決めて優勝、さらに11月のチャレンジカップでもイン逃げで優勝と、この時点で同一年SGレース2勝を達成し、年末のグランプリに挑むこととなります。

そして住之江競艇場で開催された賞金王決定戦では4コースからのスタートとなりましたが96年のグランプリを再現するかのようなまくりを決めて優勝、これで同一年間SGレース3勝という偉業を達成すると同時に3度目の賞金王にも輝きます。

そしてこの年の年間獲得賞金の合計は2億8,418万4,000円となり、自身の最高獲得賞金を大きく更新するという結果となりました。

痛恨のフライング休みと突然の引退発表

痛恨のフライング休みと突然の引退発表

その後もさすがに2002年ほどの活躍とはいきませんでしたが、ほぼ毎年のように賞金王決定戦には出場しており、2005年にはボートレースオールスターで優勝、2006年には1,500賞を達成するなどトップレーサーとして活躍していました。

そして2007年、この年も作戦と同様に順調な滑り出しで獲得賞金を積み重ね、ボートレースクラシックに臨むこととなります。

モーター抽選では超抜モーターを引き当ててまさに鬼に金棒、予選・準優勝戦ともに圧倒的な強さを見せてトップ通過、誰もが植木選手の優勝は堅いだろうと考え、舟券の人気も植木選手に集中しました。
ところが優勝決定戦で植木選手はわずかコンマ01秒ではありますが、フライングをしてしまいます。

たとえコンマ01秒でも反則は反則であり植木選手は出走停止、フライングとなった場合その選手が絡んでいる舟券は全額返還となるため植木選手を含めた舟券は返還対象となるのですが、その額が全体の売り上げの9割近くとなる「17億4,522万7,000円」というとてつもない金額となりました。

植木選手にとって何より痛いのが、このフライングによって以降1年間「グランプリレース」を除いてすべてのSGレースの出場権を失ってしまったということです。
しかもこの年の賞金王決定戦は初めて地元開催となっていただけに、非常に悔しかったことでしょう。

休み明けの復帰後も好調とは言えないまでもそこそこの走りを見せ、ファンの誰もが植木選手の復帰後の活躍を期待していたのですが、7月19日に突然「競艇選手を引退します」と発表、翌日の「永年功労者祝賀会」において正式に引退を表明しました。

この引退は思い付きということではなく、元々桐生競艇場の事故があってから今後の事を考えたときに「20年間は現役を続けよう」と決めていたらしく、この年がちょうど20年目にあたるため引退を決めたとコメントしていました。

これからどうしようと考えていたということは、やはりレースに対する恐怖心はあったと考えるのが普通でしょう。

何より現役を続ける理由が「桐生競艇場の人たちやお世話になった人たちのため」と語っているので、20年間恐怖心と戦いながらレースに出続けていたことはほぼ間違いありません。

そのような状況で復帰後はずっとトップレーサーとして君臨し続けていたのですから、並の精神力ではありません。

引退後も第一線で競艇界に携わる

植木元選手は引退した翌年、2008年から日本モーターボート協会の理事長に就任し、現在は執行役員となっています。
また2012年より競艇選手の養成学校である「やまと学校」の校長も兼任しています。

そして2018年より「ボートレースアンバサダー」に就任、競艇を更に世間に広めるためにネット配信に頻繁に出演したり、各種講演をこなすなど、引退後も第一線で競艇界に携わっています。

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まとめ

植木道彦元選手は現役時代に福岡支部に所属していました。
デビュー後わずか1か月で初勝利をあげるなど早くから活躍していましたが、デビューから3年後事故によって70張り以上も縫う大怪我に見舞われます。

しかしわずか半年で復帰、しかも復帰レースに選んだ場所は事故を起こした桐生競艇場でした。
このことは大きな話題となり、植木選手にはいつしか「不死鳥」という異名が付けられます。

更に復帰後はすさまじい勢いで勝ち星を重ねてグランプリの常連となる活躍を見せ、そのあまりの強さから「艇王」という異名もつけられました。

しかし2007年まだまだトップレーサーとして活躍していた時期に突然引退を表明、現役を引退することとなります。
しかし現役引退後もやまと学校の校長やボートレースアンバサダーといった立場で競艇の発展に尽力されています。