濱野谷憲吾選手は漫画モンキーターンの主人公のモデル⁉成績、結婚について解説

濱野谷憲吾選手はあの漫画の主人公のモデル

競艇の舟券をある程度の期間買い続けている人で、「濱野谷憲吾」選手の名前を知らない人はいないのではないでしょうか。

それほど濱野谷選手の実力と人気、知名度は高く、今の競艇界を語るうえではなくてはならないレーサーのひとりです。
本記事では濱野谷憲吾選手について深く掘り下げていきます。

濱野谷選手のプロフィール

濱野谷選手引用元:BOAT RACE オフィシャルウェブサイト

濱野谷憲吾選手の簡単なプロフィールは以下のようになっています。

名前 濱野谷憲吾
登録番号 3590
生年月日 1973年11月8日
所属支部 東京
身長 169センチ
体重 57キロ
級別 A1

濱野谷選手は東京支部に所属しています。
級別は最高クラスのA1級で、そのなかでも濱野谷選手は常にSGレースにその名前が出てくるほどのトップクラスのレーサーです。

「ムテキング」「ヘマキング」「水上のファンタジスタ」「東都のエース」とさまざまなニックネームがあるのが濱野谷選手の特徴となっています。

現在は50歳手前ですが、それを感じさせないようなとても端正なルックスと、そのルックスからは想像もできない攻めの姿勢で豪快なスピードターンを決めるレーススタイルから男性だけではなく、20代30代の頃は多くの女性競艇ファンを虜にしていました。

生涯獲得賞金は24億円近くになっており、生涯獲得賞金ランキングトップ10以内に君臨するほどの成績を残しています。

競艇選手はレースに勝てば勝つほど獲得賞金が増えるので、生涯獲得賞金トップ10以内に君臨している濱野谷選手は、間違いなくこれまでの競艇界の歴史においてもトップクラスのレーサーのひとりとなっています。

ちなみに現在調教助手で、元騎手である濱野谷憲尚さんは濱野谷憲吾選手の実のお兄さんです。

とても多趣味な濱野谷選手

濱野谷選手はとても多趣味で有名なレーサーとして知られています。
ゴルフ、海釣り、スキューバーダイビングといった見た目にピッタリのアウトドアの趣味だけではなく、パソコン、DJといったインドアな趣味も持っており、趣味の幅もとても広いです。

好きな食べ物はラーメンやイタリアンですが、太りやすい体質ということもあり、食べ過ぎてしまうと減量がかなり大変だとインタビューで語っています。
減量の方法はとてもシンプルで「食べないようにしている」との事です。

濱野谷選手はブログを開設していて、そのブログには自身で作った料理の写真も掲載しています。
日ごろから自ら積極的に体調管理と体重管理を行っているからこそ、長年第一線で活躍し続けることができているのでしょう。

トーキョーベイパイレーツのメンバー

平和島競艇場では2007年から同競艇場及び競艇のPRのため、東京支部に所属しているA1級選手11名で「トーキョーベイパイレーツ」というユニットを結成しています。

濱野谷選手はこのトーキョーベイパイレーツ結成当初からのメンバーとなっています。
トーキョーベイパイレーツは、2009年まで「シーズン1」を、それ以降は「シーズン2」となっているのですが、濱野谷選手は両方のシーズンでメンバーの一員です。

シーズン2ではメンバーの入れ替えがあり、それまでの成績上位で、なおかつファン投票上位の選手がシーズン2のメンバー入りを果たすこととなっていたので、濱野谷選手は実力も人気も兼ね備えた選手だということが、この事例からもわかります。

ちなみにトーキョーパイレーツは現在、「Tokyo Next」という名称に変わっています。

有名競艇漫画の主人公のイメージモデル

波多野憲二引用元:PRTIMES

そして濱野谷憲吾選手のことを語るうえで欠かせないのが、「モンキーターン」という競艇を題材にした漫画です。
「モンキーターン」は恐らく競艇を題材とした漫画としては最も知名度が高い作品でしょう。

濱野谷選手はこのモンキーターンの主人公である、「波多野憲二」のイメージモデルになったというのは、競艇ファンの間ではあまりにも有名です。

濱野谷選手と、主人公波多野憲二は、共に東京出身であること、学生時代は野球部だったこと、デビューが平和島競艇場であることなど、共通点がたくさんあります。

モンキーターンは競艇を題材にしているということを抜きにしても、非常に面白い作品なので、興味がある人はぜひ読んでみてください。

競艇選手になるまでの経緯

競艇選手になるまでの経緯

濱野谷選手はご両親から「競艇選手になれば良い車に乗れるようになる」といわれたのがきっかけで競艇選手を目指すようになります。
良い車に乗れるというのは、裏を返せば競艇選手はとても儲かる職業だということを言いたかったのでしょう。

また、先に少し触れましたが、お兄さんが競馬の騎手を目指していたこともかなり影響しています。
濱野谷選手がまだ競艇の養成学校に通う前、すでにお兄さんは騎手の養成学校に通っていました。
お兄さんが夢に向かって頑張る姿をを見てカッコイイと思うようになるのも無理はないでしょう。

ちなみに現在濱野谷選手は数千万円はするであろう高級車に乗っています。
しっかりと目標を叶えているのはさすがです。

中学卒業後すぐに本栖養成所に入って競艇選手としての心構えや技術を学び、1992年5月19日に地元東京の競艇場である平和島競艇場でデビューしました。

デビュー1年目で初優勝!

濱野谷選手はデビューしてなんと2戦目で初の1着を勝ち取ります。

新人選手はどの艇からスタートしても6コースを通らなければならないという暗黙のルールがあり、ある意味ハンデキャップを背負った状態でレースに臨むことになります。

その状況でデビュー2戦目で1着を獲るというのは並大抵のことではありません。
そして、デビューして1年後の1993年9月にははやくも初優勝を飾ります。

もともと中学卒業から養成所に入ったので、デビューした時の年齢が若いというのもありますが、初優勝した時はなんと19歳10か月という若さでした。
この快進撃を見て、だれもが「競艇界にニューヒーローが現れた」と感じたことでしょう。

しかしそこから勝ち切れない日々が続く

しかしそこから勝ち切れない日々が続く

ところが、濱野谷選手は初優勝した直後から突然スランプ状態に陥ります。
レースで勝つことはあるのですが、なぜか優勝にまで到達することができず、結局その後優勝戦を25連敗してしまうという苦しい日々を過ごします。

結局初優勝から2回目の優勝までには実に2年7か月という長い年月を費やすことになりました。

1996年にSG戦初出場

1996年にSG戦初出場

1回目の優勝から2回目の優勝までは長いブランクがありましたが、2回目の優勝を決めてからは勝つためのコツを完全に掴んだのか、濱野谷選手は覚醒します。

2回目の優勝を決めた1996年はその後優勝を固め打ちし、最終的には3節連続優勝を含めた7回優勝という素晴らしい成績となっています。
そして同じく1996年、全日本選手権競走(ボートレースダービー)で濱野谷選手はSG戦初出場を果たします。

さらに初出場だけで終わらないのが濱野谷選手のすごいところで、この初出場の全日本選手権競走ではいきなり3回も1着になるという、初出場らしからぬ大活躍を見せます。

しかしそれ以上に話題をさらったのが1日2回も転覆してしまうという珍記録で、この事件によって濱野谷選手の名前は一気に全国区のものとなります。

転覆を1日に2回もしてしまったのは、思い切って攻めた結果でしょう。
濱野谷選手のここ一番でのメンタルの強さが伺えます。

97年G1初優勝、翌年にはSG戦初優勝

97年G1初優勝、翌年にはSG戦初優勝

翌1997年には初めてG1レースを制すと、更に次の年、1998年にはSG戦初出場のときと同じ舞台である福岡競艇場にて開催された「全日本選手権競走」でついにSG戦初勝利に輝きます。

優勝決定戦では3号艇でしたが、スタートで痛恨の出遅れをしてしまい、5コースからの侵入となってしまいます。
しかし第1ターンマークで豪快にまくり差しを決めて1番手になるとそのままゴールし、優勝を決めました。

以降これまで4回SG戦で優勝している

以降これまで4回SG戦で優勝している

濱野谷選手は現在までにSG戦での優勝を4回経験しています。
2回目の優勝は2000年の「賞金王チャレンジカップ」で、優勝決定戦では有利な1号艇からのスタートとなると、そのまま後続を寄せ付けずにイン逃げを決め、1着でゴールしました。

そして3回目の優勝は翌年の「賞金王シリーズ戦」です。
2001年は成績が振るわなかったため賞金王本戦の出場はできませんでしたが、シリーズ戦の出場を果たします。
予選で1着3回、準決勝でもしっかりと1着でゴールと抜きんでた走りをして、決定戦では3号艇でのスタートとなります。

レースは前を走る吉川選手との激しい1着争いとなりますが、3周目の第1ターンマークで吉川選手を振り切って1着になるとそのままゴールし、見事賞金王シリーズ戦を制しました。

ここまではコンスタントにSGレースを優勝してきた濱野谷選手ですが、ここでまたもやスランプに陥ります。

SG戦には出場するものの、優勝には届かないというレースが続き、次のSG戦優勝までなんと優勝決定戦14戦連敗というなんとも歯がゆい日々を過ごすこととなりました。
長いトンネルを脱したのは2007年の「総理大臣杯(ボートレースクラシック)です。

このレースには当時最強の名をほしいままにしていた「艇王」こと植木道彦選手も出場、優勝決定戦では植木選手が1号艇と圧倒的に有利な状況で、3号艇からのスタートとなった濱野谷選手の優勝を期待するも、なかなか難しいだろうという声が多くありました。

しかし優勝決定戦本番、植木選手はまさかのフライング失格という大波乱のスタートとなります。
ちなみに植木選手にとってはこのレースがSG戦最後のレースとなりました。

植木選手がフライング失格となったことで濱野谷選手が繰り上がりでトップとなり、そのまま先頭を譲らないままゴール、大歓声に包まれながら5年ぶりのSGレース優勝を決めました。

結婚はしているの?

結婚しているの?

濱野谷選手が結婚しているかについてですが、濱野谷選手はご結婚されています。
奥様に関しては情報がありませんが、競艇選手という情報は出ていないので一般の方のようです。

お子さんは娘さんと息子さんがそれぞれ1人ずつおり、4人家族となっています。
年に2回ほど家族旅行に行っているとのことなので、家族仲は良好なのでしょう。

奥さんの支えやお子さんの存在が濱野谷選手のレースに挑む大きな原動力のひとつとなっていることは間違いありません。

2021年は大活躍の1年

2021年は大活躍の1年

2007年の総理大臣杯優勝以降も濱野谷選手は毎年SGレースに出続けはするものの、優勝することはできず、濱野谷選手の活躍に陰りが見え始めます。

その頃から峰選手や毒島選手といった若手の台頭もあり、濱野谷選手はもうこれまでのように「東都のエース」と呼ばれるような活躍は出来ないのではないかと言われてきていました。

2019年には違反工具の持ち込みというベテラン選手ではありえないような不正も犯してしまい、ファンからの信頼も徐々に失ってきてしまっていたのは紛れもない事実です。

しかし2020年に苦手としていた戸田競艇場でなんと27年ぶりに2回目の優勝を決めます。
この優勝で何かを掴んだのか、翌2021年は年明けから4連続で優出を決める絶好調の滑り出しで、ファンも「今年の濱野谷はこれまでとは違うかも知れない」と期待を寄せていました。

そして、濱野谷選手はこの期待に違わぬ大活躍をすることになります。
3月にはこれまで優勝経験がなかった唐津競艇場でついに優勝を決め、超一流レーサーの証である「全24競艇制覇」を達成しました。

濱野谷選手はその後も調子を落とすようなことにはならず、7月にはSGレースである「オ-シャンカップ」に出場します。

予選・準決勝すべて2連対以内という圧倒的な強さを見せ、優勝決定戦でも1号艇からのスタート、スタートもコンマ15秒とトップスタートを決めてその後も危なげない走りを見せます。

結局最後まで1着を譲ることなくそのまま逃げ切り、2007年の総理大臣杯以来14年4か月ぶり、自身5回目のSGレース優勝を決めました。

未だ賞金王は獲得できず

未だ賞金王は獲得できず

以上のように、2021年は久々に好調な年ではありましたが、惜しくも年末の「賞金王決定戦」では優勝することができず、賞金王優勝も年間賞金王も獲得することができませんでした。

生涯獲得賞金トップ10以内に入っている濱野谷選手もいまだに賞金王のタイトルと年間賞金王のタイトルは獲得できていません。

まとめ

本記事では濱野谷憲吾選手について深く掘り下げていきました。
濱野谷選手は東京支部所属の選手で、すでにベテランの域ではありますが、毎年SGレースでは必ず顔を出すほどの超一流レーサーです。

「東都のエース」というニックネームに恥じない活躍を今もしているといってよいでしょう。
しかしその選手人生は決して順調というわけではなく、なかなか優勝しきれない時期を何度も経験しています。

ですが濱野谷選手はそのたびにそのブランクを乗り越えてきました。
2021年はSGレースを久々に優勝するなど大活躍の都市で、濱野谷憲吾はまだ健在であることを存分に見せつけた1年でした。

生涯獲得賞金ランキング10位以内の濱野谷選手ですが、いまだに賞金王のタイトルは獲得していません。
賞金王決定戦で表彰台の一番上に立つ姿を見たいものです。