原田幸哉選手の波乱万丈な競艇人生とは?なぜ長崎に移籍した?

原田幸哉

原田幸哉選手は闘志むき出しの荒々しいレーススタイルで熱狂的なファンを獲得している競艇選手です。
これまでの成績も輝かしいものであり、一流選手のひとりといってよいでしょう。

しかしその選手人生は必ずしも順調といったものではありませんでした。
山あり谷ありの波乱万丈な人生を振り返りつつ、原田選手の魅力を探っていきましょう。

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原田幸哉選手のプロフィール

原田幸哉引用元:BOAT RACE オフィシャルウェブサイト

原田幸哉選手の簡単なプロフィールは以下のようになっています。

名前 原田幸哉
登録番号 3779
生年月日 1975年10月24日
所属支部 長崎
身長 172センチ
体重 51キロ
級別 A1

原田選手は現在長崎支部に所属しています。
実は愛知県生まれであり、もともとは愛知支部所属だったのですが、後に詳しく説明する理由で長崎支部へと移籍しました。

級別は最高ランクであるA1級で、そのなかでもSGレースを複数回優勝している名実ともにトップ選手のひとりです。

現在46歳であり、ほかのスポーツ選手であればすでに引退、または引退を考える年齢なのですが、競艇選手は選手寿命が長いので40代でも一線級の活躍をしている選手はたくさんいますし、その上の50代60代でもA1級をキープしている選手が存在します。

原田選手もまだまだ十分活躍できる年齢だといえるでしょう。

競艇選手になる前は自衛隊に入隊していた

自衛隊のレンジャー部隊

競艇選手になろうとする年代はさまざまですが、たいていは高校を卒業する前に進路について真剣に考えた際に競艇選手を目指すことを決めるケースが多いです。
ところが、原田選手は中学時代にはすでに競艇選手になる事を決めていたようです。

実は原田選手のお父さんが大の競艇好きであり、原田選手も幼いころから地元にある蒲郡競艇場をよく訪れていました。
実際にレースを観戦しているうちにすっかりハマってしまい、自身も競艇選手になることを決め、中学卒業後は高校へ進学することはしませんでした。

しかし、いきなり競艇選手の養成学校に行くのではなく、原田選手はなんと陸上自衛隊に入隊します。
しかし自衛隊に憧れていたというわけではなく、自衛隊はあくまでも競艇選手になるための基礎体力作りをするための手段として入隊したと後に語っています。

中学卒業前に具体的な将来のプランを立てていたというのは本当にすごいことです。
そして陸上自衛隊で3年間しっかり訓練を受けたのち、やまと競艇養成所の試験を受け、見事一発合格しました。

実は競艇選手になる前の経歴が自衛隊だったという競艇選手は意外にも多く、入隊した理由も原田選手と同じく「競艇選手になるための準備期間」と語っている選手も複数いました。

自衛隊での訓練は想像を絶するもののようで、普通の人ならば途中で離脱する人がいるような養成所での生活も、自衛隊での訓練を経験した選手たちからすると、まったく辛くなかったそうです。

陸上自衛隊で3年間厳しい訓練を受けた原田選手も何の苦も無く養成所の訓練を乗り切り、養成学校を卒業、選手としてデビューすることになります。

デビュー直後から快進撃

デビュー直後から快進撃

原田選手は1995年6月、蒲郡競艇場で開催されたレースで選手としてデビューします。
そして、なんとデビュー戦を1着でゴール、初勝利を決めて水神祭を体験することになりした。

競艇の規則に定められているわけではありませんが、レースにおいて、新人選手はどのコースからスタートしても6コースから進入しなければならないという暗黙のルールがあります。

これは先輩後輩の優劣をつけるためではなく、インコースだとどうしても艇が殺到し、まだレースに慣れていない新人選手だと慌てたりして事故を起こしてしまう可能性があるからです。

6コースから進入すれば確かに安全ですが、インコースが圧倒的に有利な競艇においてはとても不利な条件でレースをおこなうこととなります。
そんな状況で新人選手がいきなり勝利してしまうのですから、原田選手がいかに凄い選手かが分かります。

この節の最後には残念ながらフライングを喫してしまいますが、それでも原田選手のデビュー戦の走りは衝撃的なものだったことでしょう。

原田選手の快進撃は初出走初勝利だけでは終わりませんでした。
翌年には初優出を決めると、普通の選手なら数年はかかるとされている初優勝まで、デビューの翌年に決めてしまいます。

そして、97年は年間5回優勝という、デビュー3年目の選手にしては信じられないような活躍を見せ、最優秀新人賞のタイトルを獲得します。
この年は結婚をしており、原田選手にとっては充実した1年だったことでしょう。

2002年は飛躍の年

2002年は飛躍の年

98年には「新鋭王座決定戦」でG1レースに初優出します。
優勝決定戦では6コースからのレースと、不利な状況ではありましたが最終的には3着でゴールし、初優出の選手としては大活躍でレースを終えました。

この新鋭王座決定戦は現在ヤングダービーという名称に変わっており、ルールも変更されています。
新鋭王座決定戦の時の出走条件は「デビュー6年未満」というルールがありました。

2000年、原田選手は自身3度目の優出をこの年の新鋭王座決定戦で決めます。
決勝戦では有力とされていた守田俊介選手、瓜生正義選手と6号艇に乗っていた大神選手の3名がフライングで失格するという大波乱の幕開けとなりました。

いっぽう3号艇でのスタートだった原田選手は危なげなくスタートを決めるとそのままゴール、見事新鋭王座のタイトルを獲得しました。

そして2002年は原田選手にとって飛躍の1年となります。
1月に常滑競艇場で自身初となる完全優勝を決めると、そのままの勢いで鳴門、浜名湖、下関、蒲郡、宮島の各競艇場で優勝します。

10月に平和島競艇場で開催されたSGレース「全日本選手権」にも当然ながら出走、優勝決定戦では1号艇のスタートという圧倒的有利な状況を存分に活かして2位に大差をつけてゴール、デビュー7年目で見事SGレース初優勝を決めました。

その後も2004年、2009年、さらに2021年とSGレースに合計4回も優勝しており、現在もトップレーサーのひとりとして活躍し続けています。

強烈なダンプが持ち味

原田選手は「ダンプ」というテクニックを駆使する選手です。
ダンプとは、ターンの際に船首をあまり返さずに相手の艇に突っ込むようにしてターンをし、相手を押し出して有利なインコースを確保するという技術です。

ダンプは高度な技術を要するテクニックなので、このテクニックを自在に操る原田選手の操舵技術はかなり高いです。
原田選手のダンプは自身を象徴する戦法であり、ファンからは「原ダンプ」という名称をつけられています。

荒々しいレーススタイル故にあわや大惨事に…

荒々しいレーススタイル故にあわや大惨事に…

勇猛果敢に攻める原田選手のレーススタイルのファンはとても多いのですが、一部のファンはその反則ギリギリともいえるそのレーススタイルにあまり好感を持っていないのもまた事実です。

また、荒々しいレーススタイルが災いしてか、あわや大惨事といった状況になることもあります。
有名なのが2007年、笹川賞(現ボートレースオールスター)の決勝戦で発生した事件です。

このレースにはレジェンドレーサーとして知られる松井繁選手も出場していました。
当時は「絶対王者」と呼ばれるほどの強さを見せていて、この笹川賞で優勝すれば同レース3勝目という快挙となるレースでした。

ところが、第2ターンマークを回ったところで原田選手が松井選手に対してダンプをしかけ、弾き飛ばされてしまいます。
ファンの間では、このダンプは同期である1号艇の瓜生正義選手を優勝させるための妨害行為ではないかと後に噂が立ちましたが、その真相は不明です。

結局レースはそのまま瓜生選手が優勝、初のSGレース優勝を決めました。
そして、原田選手は瓜生選手に続く2着に入っています。

故意かどうかは分かりませんが、あわや大事故につながりかねない接触行為であることは間違いなく、その後原田選手と松井選手の仲は険悪となり、一部では「共演NG」という噂まで立つほどでした。

しかしながら、実際はそこまで険悪というほどでもありません。
例えばYouTubeでは、松井選手と原田選手が「足合わせ」をする動画が掲載されています。

松井繁&原田幸哉足合わせ

足合わせはエンジンの調子を選手同士が並走して確認する練習走行ですが、足合わせは相手の選手に「足合わせをしよう」と言い、相手が同意しなければそもそも成立しません。

足合わせが出来ているということは、少なくとも共演NGといわれるまで険悪という事はないでしょう。
むしろお互いを良いライバル同士と認めあっている可能性すらあります。

2022年でも年明けのレースで原田選手のボートが1号艇のボートと接触、1号艇がエンストしてしまうというアクシデントが発生、原田選手は悪質な航法と判断され、即日帰郷が言い渡されてしまうという波乱も幕開けとなってしまいました。

過去にはB2級陥落も経験

過去にはB2級陥落も経験

原田選手は競艇選手としての実力は間違いなくトップクラスではありますが、その闘志むき出しの性格が故に、いろいろなお騒がせ行動をしてしまう選手としても有名で、過去にはそのペナルティとして最下級のB2級まで陥落してしまったことがあります。

2本のフライングでB1級に陥落

原田選手はほぼ常にA1級に在籍し続けている選手なのですが、2010年はB1級にまで陥落してしまっています。

前年の2009年12月、G1レース「ダイヤモンドカップ」最終日の一般戦に原田選手は出走しますが、スタート時に競り合う展開となり、コンマ03秒のフライングを犯してしまいます。
2週間後にグランプリ決定戦を控えた状態でのフライングはとてももったいないミスだったといえるでしょう。

そして、迎えた賞金王決定戦、前回のフライングに臆することなく原田選手は果敢に攻めのスタートを見せますが、これが裏目に出てしまい、2日目のトライアルレースで再びフライングを犯してしまいます。

2度のフライングにより、原田選手には「90日間斡旋禁止」「賞金王決定戦の祭典除外」「30日未消化の休みがあるため翌年1月14日より120日間休み」「2010年の全SG、G1レース出走不可能」「事故率オーバーによりB1級陥落」というあまりにも重すぎる処罰が下されました。

2009年は5年ぶりにSGレースに勝利し、念願の賞金王まであと少しというところでしたが、2回フライングを犯して翌年をほぼ棒に振ってしまうという、原田選手にとっては悔やんでも悔やみきれない1年となっています。

ベテランにはありえないミスでB2級陥落

B1級に陥落してしまいましたが、一般戦では敵なしの強さを見せて勝率を上げまくり、2011年前期には早くもA1級に復帰します。
上位グレードレースでも調子を取り戻し、2013年にはボートレースクラシックで準優勝戦にまで出場、完全復活も間近と思われていました。

その年の5月に平和島競艇場で開催されていたレースの予選2日目で原田選手は転覆し、失格となります。
転覆したボートのモーターは水に浸かっているおそれがあるため一度分解する必要があるのですが、原田選手は第10レースでも出走する予定でした。

そして整備後の第10レース出走前の整備チェックの際、なんと固定金具であるロワーナットが脱落しているという重大な整備不良が発覚してしまいます。

整備する時間が短いという厳しい条件がありはしましたが、ロワーナットの脱落は自身のボートの航走だけではなく、ほかの選手との事故にもつながるため、整備規程違反に値してしまうものでした。

この整備不良によって、原田選手は7月から3か月間レースに出場することができなくなってしまいます。
さらに実は4月のレースですでにフライングを1度犯してしまっており、合わせると10月までレースに出走することができません。

10月までレースができないということは、前期の期日が終わるまで出走できないということであり、この結果2014年前期は出走回数不足によりB2級まで陥落することが決定し、再び1年半SGレースへ出走出来ないという事態になりました。

沖縄へ移住し支部も長崎に移籍

沖縄

原田選手のプライベートに関して、一時大きな話題となった出来事がありました。
原田選手は97年に結婚をした奥様とは離婚しています。
そして2009年、別の女性と再婚しました。

結婚後、原田選手はなんと愛知県から沖縄県へと移住し、所属支部も後に愛知支部から長崎支部へと移しています。
この沖縄への移住と長崎支部への移籍に関しては、ネット上でさまざまな憶測が流れたのですが、とある番組のインタビューなどで、原田選手本人から移住と移籍の理由が語られています。

沖縄へ移住した理由

まず、沖縄へ移住した理由は「オンとオフをはっきりさせたかったから」と原田選手自身がコメントしています。

愛知県には常滑、蒲郡と2か所の競艇場があり、除外舟券売り場もあるので、プライベートでも何かしらの場面で競艇に触れ合う機会も多かったことでしょう。
しかし沖縄には競艇場も、場外舟券売り場もないので、競艇に関する事象に触れることはほとんどありません。

しかし、それとは別に、「沖縄の人に競艇の事をもっと知ってほしいから」とも語っています。
恐らくこれは移住後に出てきた気持ちなのでしょう。
「自分が活躍することで沖縄から競艇選手を目指す人が出てきて欲しい」、とインタビューで語っていました。

長崎支部へ移籍した理由

次に長崎支部へ移籍した理由については、「今の奥さんの出身地が長崎県だから」とその理由をはっきりと答えています。

お正月やゴールデンウィーク、お盆は地元である大村競艇場への斡旋となるため、奥さんの実家の帰省とレース出場が同時にこなせるのは原田選手にとっては好都合でしょう。

長崎支部には樋口亮選手、津留浩一郎選手、吉村和也選手という同期の選手が在籍しているので、溶け込みやすかったそうです。

長崎支部に移籍した後でも、愛知支部の時の後輩であった池田浩二選手などがレースがない時に沖縄の原田選手の自宅を訪れるそうなので、愛知支部との関係が悪化したことによる移籍ではないでしょう。

亡き叔父さんにささげた勝利

亡き叔父さんにささげた勝利

2020年、11月に津競艇場で開催されたG1レース、「開設68周年記念 ツッキー王座決定戦」に原田選手は出走します。
予選、準決勝と危なげなく勝ち進み、優勝決定戦では絶好枠である1コースからの進入となります。

スタートも順調に切ることが出来たのですが、1周目第1ターンマークで5号艇平本選手のまくり差しが決まり、原田選手は外を走らされるという厳しい状況に立たされました。

しかし1周目第2ターンマークで今度は原田選手が平本選手の内を差し返し、直線で加速すると2周目第1ターンマークでふたたびトップに立ち、そのままゴール、見事期待に応える勝利を挙げたのです。

実は三重県は原田選手が生まれた場所であり、近所に住む親せきの中に原田選手が競艇選手を目指すきっかけを与えてくれた叔父さんが居ました。

しかしこの年、叔父さんは亡くなってしまいます。
このレースの勝利は、その叔父さんになんとしても捧げたいという、原田選手の執念が呼び込んだものといえるでしょう。

2021年は大活躍の1年

2021年は大活躍の1年

2020年11月に競艇選手を目指すきっかけを与えてくれた亡き叔父さんに、優勝で恩返しを果たした原田選手、続く2021年はまるで全盛期を彷彿とさせるような大活躍を見せます。

競艇のG1レースのなかに、45歳以上の選手が出場条件となっている「マスターズチャンピオン」というレースがあります。
2021年45歳となった原田選手は出走権が与えられ、初出場しました。

出場できる年齢2018年以降45歳以上に引き下げられたため、同期である瓜生正義選手や魚谷智之選手も初出走、さらには絶対王者松井繁選手、濱野谷憲吾選手、今垣光太郎選手と、G1レースなのにまるでSGレースでも始まるのかというような豪華メンバーでした。

そのようなトップレーサーひしめく環境でも原田選手の強さは陰りを見せることはなく、準優勝戦でもしっかりとイン逃げを決めて決勝戦に進出します。

優勝決定戦は3コースからの侵入となりましたが、加速をつけて抜群のスタートを決めると1周目第1ターンマークでまくり差しを決めてそのままゴール、見事初出場初優勝に輝きました。
原田選手はこのとき45歳6か月で、この年齢での優勝は現時点でのマスターズチャンピオン最年少優勝です。

この年の原田選手の快進撃はまだ終わりません。
次の月に徳山競艇場で開催されたG1レースでも優勝し、SGレースでもオールスター、グランドチャンピオン、オーシャンカップと続けて準優勝戦に進むという抜群の安定感を見せます。

そして8月に蒲郡競艇場で開催された「ボートレースメモリアル」にも当然のことながら出走、原田選手はこの時点でまだこのレースでの優勝経験がありませんでした。

予選は2着1回のみで後はすべて1着という圧倒的な成績で1位通過、準優勝戦でも危なげないスタートで逃げ切り、優勝決定戦も1号艇でのスタートとなります。

優勝欠点戦では白井英治選手や濱野谷憲吾選手をはじめ強豪ぞろいでしたが、圧巻の走りを見せて1着でゴール、若き日に何度も練習でお世話になった蒲郡競艇場で初のメモリアル優勝を決めました。

原田選手はこの優勝で年間獲得賞金額が1億円を突破し、4年ぶりとなるグランプリ決定戦出場権を獲得します。
しかし残念ながら最終戦出場とはならず、悲願であるグランプリ王座と賞金王は2022年以降へ持ち越しとなりました。

ちなみにグランプリ決定戦の最終レースは同期である瓜生正義選手の優勝となりましたが、レース中の接触により、4艇が転覆失格するという大波乱の結果となっています。

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プラン情報料 ¥730,000
舟券代 ¥360,000
純利益 ¥2,058,320

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まとめ

原田幸哉選手は元々愛知支部の選手でしたが、現在は奥さんの実家がある長崎支部に所属しており、住まいも沖縄県へと移しています。
級別はA1級で、そのなかでも原田選手はこれまで5回のSGレース優勝経験を持つ、名実ともにトップレーサーのひとりです。

ダンプというテクニックを駆使した闘争心むき出しの荒々しい走りが原田選手の持ち味で、「原ダンプ」という異名をつけられるほど、原田選手の走りは競艇ファンの間ではすっかり定着しています。

熱狂的なファンがいる一方で反則スレスレの走りに抵抗を持つファンもいるのは事実ですし、この走りが仇となって幾度が反則を取られるなど、波乱万丈の競艇人生を歩んでいますが、沖縄の自宅には後輩選手などがよく遊びに来るなど、人望はとても厚いです。

2021年は最年少でマスターズチャンピオンに輝くなど大活躍で、惜しくもグランプリ優勝と賞金王は逃したものの、原田幸哉は健在であることを存分に示した1年となりました。

原田選手自身、「僕らの世代はまだ終わっていない」と話していますし、実際に2021年の賞金王は同期である瓜生正義選手が獲得しているので、原田選手にも賞金王になるチャンスはまだまだあると言ってよいでしょう。