最年少SG優勝記録保持者、服部幸男選手の成績や経歴をチェック
競艇界にはさまざまな記録がありますが、その中でも「最年少SGレース優勝」という輝かしい記録を持っているのが今回紹介する服部幸男選手です。
服部選手はこの記録だけではなく、これまでの経歴を見ればレジェンドクラスの選手のひとりであることが分かるでしょう。
本記事では服部幸男選手のこれまでの活躍を詳しく解説していきます。
服部幸男選手のプロフィール
(出典: BOATRACEオフィシャルサイト)
服部幸男選手のプロフィールは以下のようになっています。
名前 | 服部幸男 |
登録番号 | 3422 |
所属支部 | 静岡支部 |
生年月日 | 1971年1月5日 |
身長 | 167センチ |
体重 | 56キロ |
級別 | A2級 |
服部幸男選手は静岡支部に所属する選手です。
すでに50歳を超える年齢ですが、未だに静岡支部のなかではトップクラスの選手として若い選手と同じようにレースに出走し、活躍し続けています。
競艇選手は50歳でも服部選手のように第一線で活躍し続けることができる稀有なスポーツのひとつで、服部選手もまだまだランキング上位に食い込む実力を十分持っている選手です。
静岡県といえば、実は浜松市を中心として餃子が有名な県であり、服部選手自身も餃子が大好物だと話しています。
競艇選手になるまでの経歴
服部選手のお父さんは「服部正雄」という名前です。
昔から競艇をやっている人であれば知っているかもしれませんが、実は服部選手のお父さんも競艇選手として活躍されていました。
服部選手はそんなお父さんの事を尊敬しており、小さいころから「お父さんと同じように競艇選手になりたい」と口にしていたそうです。
しかし将来なりたい職業というのは年齢と共にいろいろな経験を積んで変わっていくことが多いです。
この記事を読んでいる人も幼いころにあこがれていた職業とは全く異なる仕事をしている人が多いのではないでしょうか。
服部選手の場合はどうなのかというと、競艇選手になりたいという思いが変わることはありませんでした。
中学を卒業して静岡県立浜名高等学校に進学しますが、「学校が嫌い」という理由で中退し、本格的に競艇への道を目指します。
そして1988年4月、見事試験に合格し、本栖研修所に入所することとなりました。
しかしそこで競艇の才能が開花した、ということはなく、服部選手は研修所入所当時は間違いなく「落ちこぼれ」の部類でした。
ボートの操縦があまりにも下手だったため、「落水王」などというあだ名が付けられるほどです。
そして、同期の研修生のなかにもう一人落ちこぼれの存在がおり、その研修生は「転覆王」と名づけられていました。
実はこの転覆王が後に絶対王者と呼ばれることとなる「松井繁選手」です。
服部選手は落水王と呼ばれながらも努力を怠らず、研修所時代後半になると今までの落ちこぼれっぷりが嘘のようにメキメキと頭角をあらわします。
そして最終的には模擬レースの勝率「7.49」という桁違いの勝率で同期トップとなり、研修所を卒業します。
ちなみに服部選手には及ばず惜しくも2位となったのが松井繁選手でした。
この研修所入所直後は落ちこぼれと呼ばれた二人が後に競艇界のトップに君臨し、しのぎを削ることになります。
1990年代は競艇界のアイドル的存在
服部選手は現在でもダンディーな顔立ちですが、デビューして間もない1990年頃は今以上にカッコいい顔立ちをしており、ルックス面でも注目されていました。
今でこそそのルックスでアイドル並の人気を獲得している男性競艇選手はたくさんいますが、服部選手はその先駆けといっても良いかもしれません。
暴走行為が発覚し、長期欠場を余儀なくされる
しかし、服部選手にはその経歴に傷を残してしまうような行為をアイドル的人気を獲得していたころに犯してしまいます。
時期が競艇選手として活躍していたころと重なるのかどうかは定かではありませんが、過去に暴走族に所属しており、暴走行為を行っていたことが発覚します。
これにより、服部選手には6か月間の出場停止処分が下されました。
この出場停止処分をきっかけにして、服部選手は暴走族からは完全に決別、もちろん以後そういった暴走行為をするようなことはありませんでした。
服部選手はこの出場停止期間中に自らを反省し、己を見つめ直したのでしょう。
出場停止期間が明け、復帰した服部選手は一気に才能が開花、成績が急上昇していきます。
それまではアイドル的ルックスから、見た目先行の人気でしたが、復帰後はしっかりと実績も残し、舟券にも十分貢献できるような選手へと成長してきました。
1992年大記録を達成
そして1992年10月12日、服部選手は平和島競艇場にて開催された「全日本選手権競走」に出走、見事優勝を飾りました。
この時服部選手の年齢は21歳9か月であり、それまで今村豊選手が記録していた22歳での優勝という記録を抜き、「史上最年少でSGレースを優勝した選手」となりました。
ちなみにこの記録、2021年のレースが終了した時点でも未だ破られていません。
服部選手が記録してからもうすぐ30年が経過しますが、未だに破られていないというだけでもこの記録がいかに凄いかが伝わるのではないでしょうか。
トップレーサーとして次々と記録を達成する
1990年代後半の服部選手は同期である松井選手と共に、その当時のトップを走り続ける活躍をし続けました。
1995年には笹川賞と総理大臣杯という、ふたつのSGレースを制覇します。
更に1997年は賞金王決定戦を初優勝、この年はほかのレースでも多数の優勝に輝いており、後に植木道彦選手に年間獲得賞金を抜かれるまでは1997年に服部選手が獲得した賞金が年間最高賞金獲得額でした。
しかしこの1997年の優勝を最後に、服部選手は実に20年以上もSGレースでの優勝から遠ざかっています。
特に2007年は正月のレースでフライングをしたことによって総理大臣杯に出走できなくなったばかりでなく、9月のレースで2度目のフライングを喫してしまったことから、同年12月7日から翌年3月6日までG1レース以上のレースに出走できないという、なんとも歯がゆい年になってしまいました。
年齢的にも厳しい部分もあるかもしれませんが、往年のファンはもう一度服部選手がSGレースの表彰台の一番高い所に立つ姿を見たいと思っていることでしょう。
とはいえ、レースそのものの勝利数は着実に増え続けていて、2009年には通算1,500勝を達成し、2016年2月にはちょうど100人目となる通算2,000勝を達成しています。
そして2017年には全24場制覇を達成しました。
実は松井繁選手はいまだ全24場制覇を達成しておらず、こちらは服部選手が先に達成したことになります。
1年先輩・同期にレジェンド選手が
服部選手の同期といえば、何と言っても「絶対王者」であり、服部選手と同じくレジェンド選手のひとりである、「松井繁選手」がいることはあまりにも有名です。
この二人は研修所時代からライバル関係であり、切磋琢磨しつつ争ってきました。
また、1年上の先輩にこれまたレジェンド選手である「今垣光太郎選手」がいます。
この3名はそれぞれお互いをライバル視しており、インタビューなどでも公言することも多いです。
服部選手がこれまで輝かしい成績を上げているのはこの強力なライバルの存在あってこそでしょう。
生涯獲得賞金トップ10にランクイン
競艇選手は一般的な社会人よりもずっと稼げる職業であり、A1級ともなると平均年収は3,000万円と言われています。
しかし服部選手の場合、全盛期はそれを遥かに超える金額を稼ぎ出しており、一時期は1億円近い賞金を獲得していました。
長年トップクラスで活躍し続けていることもあって、生涯獲得賞金は約19億円以上ととてつもない金額です。
服部選手は現在生涯獲得賞金トップ10の第10位にランクインしています。
ちなみに1位は最大のライバルである松井繁選手で、その額はなんと36億円以上です。
この額と比べると少ないように見えてしまいますが、松井選手がすごすぎるだけで、服部選手の生涯獲得賞金もそう簡単に突破されるものではないでしょう。
服部選手のレーススタイル
服部選手が19億円という途方もない獲得賞金を積み上げてこられたのは、たゆまぬ努力によって誰にも負けないようなレーススタイルを確立したからこそです。
服部選手のレーススタイルについて、詳しく見ていきましょう。
まくり差しの考案者
服部幸男選手、実は現在の競艇界を築き上げた選手のひとりであるといっても過言ではありません。
服部選手が新人としてデビューした当時、ターン部分で相手を抜く技術としては、内側の艇に先に旋回させ、スピードをつけた状態でそのふところを通って相手を抜く「差し」が主流でした。
しかし服部選手は自ら積極的に攻めて外側からまくり、さらに内側の艇が旋回した際に出来たスペースに飛び込む、「まくり差し」という戦法を生み出します。
今ではまくり差しは当たり前の技術となっていますが、服部選手はまくり差しの考案者であり、パイオニアだったのです。
これまで誰も見たことがない、まくり差しという強烈な戦法を生み出したからこそ、服部選手は新人時代であっても勝ち続けることができました。
「水上の上では先輩も後輩もない」の名言を残す
服部選手は大きなレース前にコメントを求められた際に必ず、「ベストを尽くします」というコメントをすることでも有名です。
それ以上に服部選手の一言の中で有名なのが、「水の上では先輩も後輩もない」というフレーズです。
これは当時の競艇のコマーシャルに出演した際に発言した言葉なのですが、この一言はそれまでどちらかといえば「年功序列」の側面が強かった競艇界に一石を投じる一言となりました。
実際に服部選手は相手がベテラン選手ばかりのレースであっても臆することなく果敢に攻め続け、しっかりと結果を残していきます。
その姿を見て同期や後輩たちも奮起し、服部選手が登場して以降の競艇界は若手もしっかりと活躍できるような雰囲気へと様変わりしました。
「まくり差し」の開発と、年功序列の撤廃という大きな功績を残した服部選手は競艇の歴史を語るうえでは欠かすことができない選手の一人です。
現在はインコースからの逃げが主流に
かつてまくり差しで暴れまわった服部選手ですが、現在はどちらかといえばインコースからの逃げを狙うような戦法に変わってきており、スタート前の待機行動でも積極的に印を狙うような動きを見せてきます。
服部選手が活躍していたころは「持ちペラ制」といって、選手自身が自由にプロペラを開発、持ち込めるようなルールとなっていましたが、今は持ちペラ制が廃止されています。
そのため、インコースの艇が圧倒的に有利になっているため、服部選手もその時代の流れに合わせてきたのでしょう。
2022年はA1級から陥落
2021年後期の服部選手は思うような走りが出来なかったのか、2022年はA1級から陥落、A2級でのスタートとなってしまいました。
直近では2021年前期にB1級になってしまっていますが、これは事故などで明らかに出走数が少ないのが原因です。
しかし今回に関しては出走数は十分足りている上での陥落なので、成績不振によるものと考えて間違いないでしょう。
年齢的にも50歳を超えている服部選手にとっては、2022年は正念場の年になるかもしれません。
ふたたびA1級に返り咲くのか、それともこのまま成績がなかなか伸びず、A1級に戻ることが難しくなるのか、これからのレースを見守っていきましょう。
まとめ
服部幸男選手は静岡支部に所属している選手であり、静岡支部の選手のなかでは未だにトップクラスの活躍をしている選手です。
お父さんも競艇選手であり、服部選手自身も将来は競艇選手になることしか考えていなかったようです。
研修所入所直後は「落水王」と言われるほど落ちこぼれの生徒でしたが、後半になると一気に才能が開花、同期で同じく入所直後は落ちこぼれだった松井繁選手とともに成績トップ争いをするほどとなり、最終的に服部選手がトップ成績で卒業することになりました。
その後暴走行為による出場停止があったものの、それ以降は見違えるほどの活躍を見せ、21歳9か月でSGレースを制覇するという、前人未到の大記録を打ち立てます。
この記録は2021年終了時点でも未だに破られてはいません。
また、服部選手は「まくり差し」の考案、年功序列だった古い競艇の風習を撤廃するなど、成績だけではなく、競艇界そのものに対する貢献度もとても大きいです。
レジェンド選手のひとりである、服部選手のこれからの更なる活躍に期待しましょう。